悪縁バッサリ!縁切り寺:満徳寺 [略奪愛・復縁]


前回、縁切寺の情報について書くという記事から
更新間隔があいてしまい、すいません。
今日以降、徐々にいくつかの県にある縁切り寺について
紹介していきたいと思います。


群馬県の太田市徳川町にある満徳寺は江戸時代、
鎌倉の東慶寺と並ぶ縁切り寺として有名でした。

縁切り寺とは男女の差が激しかった江戸時代にあって
離婚を求めて駆け込む妻を救済し、その願いである夫との
離婚を叶えさせる特権を幕府から与えられた尼寺のことです。
別名は「駆け込み寺」や「駆け入り寺」とも言います。

この特権を持った寺は当時、満徳寺と東慶寺の二つしかなく、
江戸時代が瓦解するまでその数は変わりませんでした。
つまり世界に二つだけの縁切り寺だったというわけです。

その発端はどちらの寺も徳川家康の孫娘であり、豊臣秀頼の妻に
あたる千姫が関わっています。
東慶寺は千姫が助命した豊臣秀頼の娘である天秀尼の入寺にあたって、
家康が縁切り寺の制度を特別に許可されたことをきっかけに、
また満徳寺は千姫自身が豊臣家との縁を切るために入寺したことが
きっかけだと言われています。

満徳寺の史料は火災や明治維新による廃寺の影響で確実な記録は
ほとんど残っていませんが、本山も末寺も持たない独立した寺であった
縁切り寺は御所寺として確かな格式を持っていたことは間違いありません。

そんな寺の始まりは先述したように史料が失われたために言い伝えしか
残っていませんが、それによれば始まりは鎌倉時代にまでさかのぼります。

鎌倉時代、上野国で活躍していたした武士である徳川義季が寺を建立し、
その最初の住職になったのが出家した義季の娘だと言われています。
以降、新田氏に所縁ある人たちが住職になっていきましたが、
残された史料には200年という空白が見られることから新田氏の没落とともに
満徳寺も衰退したと考えられています。

なお新田氏に所縁ある人たちが住職になった理由は徳川義季が
清和源氏の新田氏の支流であったからです。
付け加えるなら徳川義季は徳川氏の始祖にあたる人物であるため、
のちに徳川家康によって徳川氏および松平氏の遠祖と見なされています。

現在満徳寺は縁切り寺だった背景から縁切りと復縁のご利益があるとされ、
寺の横にある白黒のトイレに願いを込めた縁切り札と縁結び札を流して
祈願するという独特の方法が提供されています。


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